■ 由緒 山口県小鯖町鳴瀧泰雲寺の三世覚隠永本禅師が、3 藍婆鬼を済度し て開創した。時の領主、宮下野守政盛公が禅師の高徳に帰依して、祖先供
養並びに国土安穏のために、後花園天皇文安 3 年(1446 年)起工し、 12 年かかって長禄元年(1457 年)に竣工して、350 石を付した。当
時、七堂伽藍を完備し、禅風を宣揚し地方文化に貢献する。殊に 4 世仏項 堅眠禅師より 8 世大奥鐵通禅師に至る 5 代 100 年間は、勅特賜紫禅師号
を賜り、勅使御差遺の栄に浴し、黒門と言われる勅使門が今も残っている。 しかし、慶長年間(1596 年)福島氏の芸備地区の支配により、寺領はこ
とごとく没収され、経営が困難となる。ついで浅野氏の時代になり、わず かの郡公費により維持経営していたが、文久年間の郡制改革の際、ついに 一切の維持費は檀家の負担となり寺運は衰えたが、昭和
10 年・11 年に 現在の伽藍が大修理され、今なお、末寺 53 ヶ寺を有する中本山である。 しかし、曹洞宗内の記録では、徳雲寺の実質的な開山は覚隠永本ではなく、彼の弟子の鼎
てい 庵宗梅( あんそうばい)であったとしている。師匠である覚隠永本の名前が余りにも有名であったためか、徳雲寺の開創伝説の主役はいつからか、弟子
から師匠に代わってしまったというのが真実であろう。
■備後西国三十三ヶ所観音霊場 徳雲寺の本尊は聖観音菩薩で、観世音が三十三の姿に変わって衆生を救う とされ、これが基になって備後西国三十三ヶ所観音霊場の巡拝がおこなわ
れてきたが、徳雲寺は第22番札所になっている。
■鬼うす 本堂より東北に 600mの山中に自然石の臼がある。6 代孝安天皇の際、雲 州杵築大明神初現の時に十鬼あり、その中の藍婆鬼という鬼神がここに来
て住み、色黒く飛ぶこと飛鳥の如く出没して領民を苦しめた。覚隠禅師こ れを聞かれ、住民に安堵を与えんと遠路こられて、数日、石の上に座禅を しておられた。ある夜一人の老翁が来て問答すること数回、遂に鬼の本性
を現して、自分の角を1本折って禅師に献上し、「願わくは吾の罪障をざん げするために、この山を開いて寺を建ててください。私はここを去ります。 」
といって姿を消した。禅師は、後に山中に鬼臼を発見して鬼臼峯と名づけ た。角を折って献じた故事により、当山に限り角のない鬼を書いて寺紋としている。鬼臼は、自然石で約
30 ㎝の臼穴があって常に苔水を蓄えて、 旱天でも枯渇することなく遠近より、雨乞いに詣る人が多かった。
※藍婆鬼:昔、ここの岩窟に色黒くして飛ぶこと飛鳥の如く出没自在なる 悪鬼が住んでいて、猪、鹿、狼、熊を捕らえ引き裂いて常食と す。後には山に入る木こりを捕らえ或いは人里に出て児女を捕
りかえり、石臼の如き石の窪みに押入れ挽き砕き肉泥となし骨 と供に食らう、故に里人絶えて山に入る者なく、行き交う人も なかりし…… 「広島県八幡村自治五十年志」
■ 五重塔 勅使門の向かいの松林の中にあり、石造にして天保2年田黒村浜田金右衛 門祖先追福のため、建立する。
■山中鹿介の首塚 徳雲寺世代墓の左奥にあり
■なぜ徳雲寺に山中鹿介幸盛の首塚があるのか?
① 尼子勝久と徳雲寺の関係 天文 23 年、尼子式部大輔誠 さね 久(新宮党党首)、同族春久のため滅さるる や其の第三子助四郎(後の勝久)生まれて二歳なるを乳母懐に抱き逃れ出
て徳雲寺に来り救援を乞う、住職木中圭抱和尚(五世 勅徳賜 し 紫覚海道智 禅師)之を哀れみ留めて教養すること十余年、永禄 9 年尼子義久毛利に
降るに及び助四郎依然毛利氏の領国に居るの不可を思い京都に上り東福 寺に入りて修行せり。このような事を契機にして、出雲戦国武将尼子家と 徳雲寺は密接な親交があったと思われる。
② 天正5年、中国攻めの秀吉に従い、鹿介は勝久を奉じて上月城にこもる。 しかし毛利方により城は落ち、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害
せず毛利氏に降伏した。しかし鞆の浦にいた毛利輝元の下へ護送される途 中、備中の阿井の渡しで謀殺された。首級は鞆にいた室町幕府最後の将軍、 足利義昭や輝元によって首実験が行われたという。首塚は鞆など他所にも
あるが、徳雲寺にはその首を奪い持参したという家来の墓が首塚のそばに ある。ちなみに鹿介の長男 山中幸元は父の死後、武士をやめて酒造業で 財をなし、後の鴻池財閥の始祖といわれている