八幡ガイドブック

[Ⅰ]自然
(1) 自然が造った地形と人工の地形
  • 川鳥から森にかけての広々とした田園は、標高が500~600メートルで、地形学上では吉備高原面と言われている。また川鳥から遠望できる飯山、白滝山、道後山は、1,000~1,300メートルの標高で平たんな山頂を持ち、これを道後山面という。
  • 中国地方の地形は三段になっていると言われているが、八幡は、道後山面と吉備高原面とこれらの間の山麓斜面とを生活圏としてきた。また白滝山の東斜面を山麓緩斜面として、学会ではよく知られた地形だが、誰が見ても自然が造った八幡の地形は美しい。
  • 八幡でマサ土の見られる所は、殆どが「カンナ流し」で変わってしまった人工の地形である。砂鉄を採取し鉄にするという鉄の産業は、時代と共に滅びたが、土砂を流した副産物として扇状形の流しこみ田が生まれたことは村としては幸いであったと言えようか。
  • 山に入れば、掘れるところまで掘った跡が崖になっている「ホラ」にぶつかるが、耕地の中に残された「小丸」(鉄穴残丘)などと共に「カンナ流し」が行われていたことを示す痕跡である。八幡の地が、人々によって改変された地形だと気づく人は少ない。
(2) 飯山
  • 標高は1,009メートル
  • 川鳥方面から見ると、確かに名峰 富士山の山容とそっくりである。だから八幡の先人達は飯山を「備後富士」「八幡富士」と称し、こよなく愛してきたと言えよう。内藤正作詞の「八幡村歌」においても「雲に聳ゆる備後富士 平和の姿うるはしく 萬代かけてかはらぬを 玉とかしづく人心」と高らかに詠んでいる。
  • 富士山は火山活動で出来た山で、どこから見ても雄大なすそ野を持った美しい独立峰である。いっぽう飯山であるが、東の竹森方面から見ると、白滝山から平岩をへて飯山までなだらかではあるが連峰を形成しているのが分かる。
  • 飯山は、道後山・猫山・白滝山とほぼ一直線に並んでおり、何れも地下深くでゆっくりと固まった塩基性の火成岩類で出来ている。飯山は斑糲岩や輝緑岩で出来ており、輝緑岩は磨くと青くみえるので地元では青石と云ってきた。地下深くから隆起してきた岩体が次第に浸食されて、現在の姿になったものと考えられる。
  • 頂上部からすそ野にかけての美しい緩傾斜面は、長い地史の間に三瓶山などの火山灰が積もったり、氷河時代の浸食活動を受けたりして出来た。道後山方面から飯山を見ると、屏風のようにそびえ立つ飯山とそれより一段低い吉備高原面が続いているのがよく見え、八幡が吉備高原の始まりであることがよく分かる。また飯山の麓である川鳥・保田は帝釈川の源流域であり、そのたゆみない水流が帝釈川の渓谷を作ったのである。
  • 山頂の三角点そばには大きな石碑があり、「龍王神」と刻まれている。これは明治9年の大干ばつ時に、神官、僧侶による17日間にわたる祈祷と千把火を焚いた記念の石碑である。 土用の炎天下、五十人で担ぎ、五十人が縄で引っ張りながら小出居から出発し、清水から飯山道を登り、途中から内道を登り、曽根に上がる。それから曽根伝いに飯山の山頂に着いたという。記録には「・・此ノ珍行列ハ後世再ビ見ル能ハザル奇観トシテ村民ノ語リ伝フル所ナリ」と結んでいる。
(3) 保田・塩野滝

所在地

庄原市東城町保田

指定年月日

未指定

上幅 / 下幅 / 高さ

7メートル / 11メートル / 10メートル

  • 帝釈川の上流にあたり、古くから保田の名勝地として知られ親しまれてきた。「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」にも次のように記されている。
  • 滝 壱ヶ所 高さ六間水壷三間半四方しほ野たきと申伝候
    壷 壱ヶ所 渡り四尺四方右滝脇水壷有之、名は下野五郎井と申伝、
          穴中ニ清水出、古ハ深き事不相知、当時ハ四五尺位
  • 八幡自治振興区保田支部では、平成 22 年度自治振興区活動促進補助金事業を活用して遊歩道や休憩所を整備し、憩いの場の提供に努めている。
  • 古老の話によると、古くは干ばつの際にこの滝つぼに女性が入水し、雨乞いをしたという。
(4) 魚切
  • 東城川の上流にある魚切は、大岩と急流と深い淵を持った場所で、人が吸い込まれそうな景観を呈している。昔は「猿侯が居るから近づくな」と子供に親が注意していたというのもうなづける。
  • かつては長さ17間、幅2間の魚切橋がかかり、修繕は奴可郡全体で行われていた。
  • 岩の上には、当時の石積みや橋脚の跡が残っている。ここは川西村との引継地点であり、受原村の要所でもあった。橋のたもとには小さなお堂や石仏もあり、当時の面影を残している。近くには東城第2大橋が見え、今も昔も大川を渡ることは大変なのである。
[Ⅱ]歴史・文化
(1) 歴史
八幡の古地図
  • 江戸時代後半に作られた地図である。それぞれの村の石高と郷倉が記入されており、道にも距離が示されている。現在の地図と殆ど違わない正確さである。
    測量技術は、既に現在に近かったものと思われる。
  • 村ごとに色分けされているが、濃く塗られているのは東城浅野家御給地の保田・川鳥・田殿・菅の各村であり、薄いところの森・田黒・請(受)原の各村は、広島藩の支配地(明知)であると分かるようにしてある。
地名(八幡、森、川鳥、田黒)の由来

八幡(やわた)

  • 明治22年4月市制・町村制が試行され、保田村・川鳥村・森村・田黒村・菅村・受原村が合併し、川鳥の三草に村役場が置かれた。当時の戸数は526戸、本籍人口は2,802人であった。
  • 村名については、八幡地区に川鳥八幡神社・保田八幡神社・受原八幡神社の3社があり、ことに川鳥八幡神社は川鳥村・森村・田殿村・菅村・田黒村・山中村・始終村・未渡村の八か村の大氏神と言われていたことから、これに因み『八幡村』と命名された。

森(もり)

  • 森村に古来3本の古木があり、1本は飯山の頂上に二本樹と言われる欅、1本は雲明という家の背後に榎、もう1本は宮本という家の背後の欅である。この3本の木の所在が恰も森の文字のように、一つは山嶺にあり、他は山麓の左右にあり、森の名のいわれと言われる。

川鳥(かわとり)

  • 昔、川鳥の大百姓の家に3人の娘がいた。中の娘が一番器量が良く、年頃ゆえ、隣村の奥の百姓から息子の嫁にと再三再四頼みに来て、後には人を介して是非ともと言う。日頃この大百姓は水に困っていたので、娘をやるからその代わりに水をくれないかと持ちかけた。隣村の百姓は、娘がほしいので思案の末、半分だけやることを約束した。毎年、干ばつに困っていた大百姓は、長い年月をかけてやっと田に水を引くことができた。
    その苦労を忘れないために、「川取り」という地名にしたとのことである。

田黒(たぐろ)

  • 森と田黒の境、次石と言うところの近くに平野上山という小高い山があり、その昔そこには、お城があったと言われている。このお城は、またの呼び名を「夏目城」といい、尼子方の砦で、黒田兵衛是保という武将が守っていたと言われている。この是保は、田黒の開拓にも力を入れたと言われ、田黒の地名も黒田をさかさまにして田黒となったとのことである。なお、この夏目城は、毛利方によって落城したと言われている。
道の変遷

元和5(1619)年

  • 浅野氏広島入部に伴い、代官所が置かれた西城が政治上の要所となったため、東城と西城を結ぶ道が本筋となり備中路と言う。従って東城から帝釈を経由し庄原方面に向かうかつての道は、備中故路と呼ばれるようになった。
     
    [川西村境札建]ー[魚切橋]ー[菅村境鳴之瀬橋]ー[岩こう坂]ー[才之峠]ー[川鳥村境土橋]ー[松ヶ峠]ー[保田村境才之峠]ー[滝ノ上り口]ー[大佐村境鹿深峠]

②明治16(1883)年

  • 東城西城間車道開通幅員10尺
     
    [二軒出店]ー[松ヶ峠間歩掘削]ー[権現峠]ー[三の谷藤木]ー[鹿深山中腹]ー[大佐三の原]

③明治18(1885)年

  • [二軒出店]ー[牧ヶ峠]ー[小出居]ー[棒地]
     
    車道開通幅員9尺

④明治29(1894)年

  • 中筋道路開通幅員12尺
     
    [山中]ー[柳田]ー[米子]ー[寺田]ー[友永]ー[小出居]ー[次石]ー[田黒]ー[狐峠]

⑤明治34(1899)年

  • 東城西城間道路改修幅員12尺
     
    [魚切]ー[鳴瀬橋]ー[ヒジ曲がり]ー[鳥越上]ー[二軒出店]ー[的場]ー[牧ヶ峠]ー[大亀谷]ー[寺田]ー[米子]ー[保田山手新道]ー[権現峠]ー[藤木より新道]ー[西城]
松が峠(まつがたわ)の「まぶ」
  • 明治16年に掘られたトンネル。
  • 市道松の木菅線を登って川鳥に入る所に「まぶ」と言って長さ80メートルぐらいのトンネルがあった。
  • 両側は石垣積(高さ2メートル)で出入口両側2間(約3.6メートル)はアーチ型石組天井、その他の中間部分は厚板をへの字形に組み上げた木組み天井であった。
  • 間歩通路の両側には1尺幅ほどの水路もあり、石崖の間には沢蟹がいた。
  • この道は、西城大佐より、鹿深峠、権現峠、松ケ峠を経て菅から川西に至る、西城・東城を結ぶ備中路という往還道であった。
  • その後、幅員拡張と道路整備のため昭和50年から3年計画で「まぶ」の撤去が行われ、舗装道に生まれ変わった。(総工事費1億4千2百万円)
  • 天井部分が木の枠組みで造られていて、昼間でも中程は薄暗く、「まぶ」にはこうもりが住み着いて、夜通る時、人々を驚かせた。
  • 時として、上から落ちる土砂のため、木枠が外れて道を塞ぎ通行止めがしばしばあった。こんな時には、峠から急な細い山道を登り大金池のそばに下りる難所であった。
  • 「まぶ」を通り、川鳥村に入ったあたりに、茶店や旅籠もあったという。
  • 資料によれば明治16年11月3日、開道の式を挙行するや沿道又は近村の人々は種々の振る舞い物を荷車数十輌に装積し、松ケ峠隋道の西入口に新設したる祝場に集合す、とあり。
小左衛門堂と享保の一揆
森にある野尻小左衛門堂

いわれ

小左衛門堂之訳、亨保年中村々騒立候節 野尻百姓小左衛門死罪二相成、亡霊之為村中建之『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳』森村

原因

 宝永五(1708)年、財政危機にあった広島浅野藩の五代藩主となった28才の吉長は機構改革に果敢に取り組んだ殿様であった。
藩政改革は勿論だが、地方の改革にも取り組んだ。
 それは正徳二年(1712)年、これまでの郡方支配を改め「正徳新格」を発布し、有力農民(大庄屋)を藩士待遇にして所無役人や頭庄屋に任命して、地方支配を強めるものであった。これは別の見方からすると村の実情に精通した者に徴税の実務などを業務委託し、収奪をより強めようとしたものである。
 さらに年貢率を上げ亨保二年から定免制とし、検地の準備もしていた。
 この様な藩の動きに対し、亨保三(1718)年、三上郡が発端となり領内全域の騒動となった。

特徴

 明地及び家老給地村ごとに結集し、行動を起こした。処分も給地ごとに行われた。

東城浅野家御給地7ヶ村の場合

3月下旬

川西村を除いた保田、川鳥、田殿、菅、下千鳥、戸宇の各村が菅に集まる。

3月22日

川西村六郎左衛門が広島城下へ嘆願に出かけようとしたが、本村で止められる。

3月24日

これを聞いた6ヶ村の百姓200人が集まるが、話を聞いて解散す。

4月

川鳥に6ヶ村の百姓200人を集め、御救米の提供、御免下げ等の要求を取り次ぐことを約束。

7月3日

川鳥に百姓を集め、この度の要求をかなえることと一揆の責任者の処分を発表す。

7月12日

発頭人として菅・篠原保右衛門、川鳥三草・大原八兵衛、川鳥・土橋十兵衛、田殿・鳥越九衛門の4人を東城下川西友末の川原で処刑する。

明知方の村の場合

7月7日

東城へ関係する村の庄屋、与頭、頭百姓を集めて騒ぎを収めるよう申し渡す。

7月8日

西城で春以来の騒動を吟味、詮議し入牢を命じる。

7月9日

発頭人として森村・野尻小左衛門など小奴可村、下千鳥村、油木村、大屋村の人々合計7人を西城大橋下の河原で処刑する。

川東小田家『郡務拾聚録』天巻(庄原市蔵)

結果

 藩政史上最大級の農民一揆となり、やむなく「正徳新格」を廃止し郡方支配を元に戻した。
 農民側も藩全体で処刑者百人余り、取りつぶしの家二百軒という犠牲をだした。
 それ以降、広島藩では改革に対し消極的となったと言われている。年貢率も近世を通じてほぼ固定されていたのは、百姓が年貢を単に取られるままの存在ではなく、「百姓成立」の判断基準として認め既得権としていたため、改革という名の増税や新税に対しては命がけで反発したのである。

犠牲者に対する村人の対応

 野尻小左衛門堂、大原八兵衛堂、鳥越九右衛門堂、土橋十兵衛堂建立。小左衛門踊りなどそれぞれお堂の前で供養の踊りをする。
 連座した川除籐武は無事放免され、神に感謝し川鳥八幡神社に石の鳥居を宝暦3(1753)年に寄進した。

農民一揆とは
 江戸時代を通じて農民一揆は決して暴動ではなく、統制のとれた作法にもとづいた農民運動でした。作法とは決して人を傷付けたり殺したりしてはならないし、盗み、火付けも厳しく禁じており、これに反した者は制裁を加えた。但し打ちこわしは暗黙の了解では行われており、悪徳役人や商人宅などの家財道具を壊したりしたようである。
 みの笠を付け手には鎌などの農具は持っていたが、武装はせず、集団で意思表示するのが目的だった。非暴力でこのように強訴する農民側に対し、役所側も決して武力で封じ込めることはなく、交渉に応じたのである。
 しかし、一揆の原因が何であれ、指導者に対しては獄門などの厳しい決まりがあり、年貢の増徴などを目的とした制度改悪に対しては、百姓が成り立たないというやむにやまれない状況下にのみ一揆は起こされたのである。このように農民の犠牲は伴ったが、状況に応じて罪に問われない場合も多くあったようだ。しかし広島藩の享保3年の一揆に対する処遇は全国的にみても苛酷であったと言われている。
森時雨碑と明治2年の大凶作

 明治2年の気象について、雲龍寺文書は簡潔に次のように記述している。
「当年ハ殊ノ外夏中雨天続キニテ・・・」

 この様な状況下で育った稲の作柄について、凶作と見た農民達とそれに対応しない役所とのズレが森村の一連の騒動の要因であった。
 しかし、役所側も早くから不作の予想をしていたらしく、7月27日には内々に触を出した文書を残している。それにしても、隣合わせの田殿村などの歎願書提出とちがって、行動をおこした森村の対応が対象的で興味深い。残されている資料を紹介したい。

西城町堤富士雄「御触状控帖」

「火急内々触」
当年気候後レ未タ出穗之見留難付候ヘ共此砌一同難渋いたし候趣ニ付拙者共限リ二而御囲籾貸付之儀相含置可申候間早々蔵出し難渋者凌せ方御取ハカル可被成候・・・・

巳七月廿七日 当番割庄屋 三上健助

森横路家文書「当作方不熟ニ付御歎申上書附」(明治二)

一、当作方不熟ニ付、初秋以来御屋敷様表ヘ度々御注進奉申上、御見分被為成遣候様申上候所、此程御役方様入村上御見分被為成遣夫江御知行所御倉入ニ被仰出、就而者其儘御引取被為成候儀ニ御座候、何卒早々御見分之上、御慈悲之御判断被成候様偏ニ奉願上候。
一、当年大凶作ニ就而ハ、諸稼等一円無御座初秋ヨリ極難渋百姓共渡世方必死行当種々嘆出候ニ付・・途方暮居申候・・此段宜御執成被仰上可被下厚御申上候、以上
巳九月二日   七ヶ村々
          庄屋与頭
 当番割庄屋
    三上健助殿

雲龍寺文書「明治二年飢饉記録書改」

「当年ハ殊ノ外夏中雨天続キニテ・・。当村ハ勿論近村ニ至ル迄凶年ニ付キ御上米御本所ヘモ相掛リ申サザルコトニツキ・・。
此ノ冬大雪大ジミ大川ノ氷三四寸厚サヲ風聞イタシ候、極年貢取方取立ニ付キ米ハ御座ナク当森村方五人広島へ嘆願シタル罪ニヨル当村内十余人西城ノ役所ニツナガレ監獄ニ入レ数々難儀シ今迄帰村不仕極二十七日記置ク」

『広島県八幡村自治五十年志』『古今の人物』より

里右衛門、武八郎、力右衛門
・・・・不穏ノ激文ヲ草スルモノアリ、郡吏其情ヲ悪ミ庄屋里右衛門、長百姓武八郎等ヲ捕ヘテ獄二下シ 直訴人力右衛門其他連座スルモノ十数人共二 訴状及激文ノ出所二付厳重吟味ヲ行ヒ 惨酷ナル拷問ヲ加へシモ容易二実ヲ得ズシテ年ヲ超エ・・・・・

「森時雨碑」異聞

 西城の牢で自死した雲明武八郎の子孫である内藤康雄氏は【森時雨碑由来】と題した次のような聞き書きを残しておられる。
「・・さて、前述のように物情騒然のなかで、ある朝、森の白髭神社の、けやきの大木の洞穴の中に割り竹に夾んだ檄文が建てられているのが、通りがかりの村人により発見された。・・これが西城代官所の役人の知るところになって、きびしい取調が行われることとなった。代官所の推察では、文書の内容、筆跡から、村の主だつものの仕業とし、森村の庄屋、友永里右衛門、長百姓の雲明武八郎、神職の中島利藤太などの、村の中心人物がつぎつぎに捕らえられ・・」

(2) 大仙信仰

 田植唄を記録した川鳥大橋本の中に、次のような歌が出ている。

「大山の下山様はなに神か
       諸国の牛馬の守り神」
「大山の横手の上にある笹は
      諸国の牛馬の御符の笹」

 このように、当地域の篤い大山信仰は、牛馬を家族の一員として扱ってきたことからこそのものである。それぞれの村には、大山が遠望できる高い山などに大仙さんが祀ってある。

森の大仙さん
平岩の大仙社

 飯山頂上から白滝山へかけて美しい稜線が続くが、その一番高いところに平岩がある。その平岩から大山が遠望できるため、森村の大仙さんが祀られているが、わざわざそこに行かなくても地元湯谷集落の入り口に遙拝所が作られている。

保田の大仙神社
左が大仙神社 (右は伊勢神社)

 大規模林道を、保田から西城の高尾に向かっていくと左側にある。
 2つの神社は、同じところに並べて祀ってある。
 大仙神社は、木造トタン葺きの小祠で、もとは、現在より約1キロメートル離れた鹿深山の麓にあったものを明治の初め頃に現在地に移したということです。
 祠には石仏2体が納められており、どちらも寛政11(1799)年己未年六月吉日の作とある。右側の石仏には、「地蔵権現奉建立」とあり、建立者は「山中鍛冶屋師要助」となっている。左側のものの建立者は「同村鍛冶屋柳兵衛」とあり、いずれも鍛冶師の建立で、鉄の運搬にあたった牛馬の安全を願って建立されたものであろう。

受原の大仙さん石造物

   大   
   智   
   明   
施  大  明
主  権  治
   現  四
和  本  十
田  地  四
次  地  年
郎  蔵  八
   菩  月
   薩  建
      立

 藤沢さん宅のそばに大仙信仰の石造物があり、神仏習合の姿があらわされている。即ち、大山の神さま大智明大権現(垂迹)は、地蔵(本地)さんが姿を変えておられるという本地垂迹ほんじすいじゃくの考えなのです。ちなみに大山地方では地蔵は、たくさん見られるが馬頭観音は全く見られない。

篠原の大仙さん

 篠原のお大師堂横には、大仙さんと八坂神社が祀ってある。この大仙さんは、徳雲寺の大仙さんから、八坂神社は、平子の天王さんから(牛頭天皇)勧請してある。牛馬の安全と供養を、二柱の神さまに頼んだということだろうか。

川鳥の大仙さん

 八幡神社境内右庭に祀られている大仙社は川鳥、保田、山中の人達が馬場山の大谷牧場に春・秋の間放牧していた牛馬の安全を祈願して大谷山の大きな岩影に祀ったもので、祭りは岩陰の小さな広場に皆が集まり、酒と海の物と山のものをお供えして宮司さんに拝んでもらって牛馬の安全を祈願した。直会には煮しめやおにぎりが、子供にも駄菓子やアンパンなどが振舞われたため子供たちは山道を意に介せず喜んで参加したものである。

田黒の大仙さん

 国司神社の向いの山中に田黒の大仙社がまつられている。今はお参りする人も少なく荒れた状態になっている。

(3) その他
白鬚神社の絵馬
白鬚神社の絵馬
児島高徳図

 明治以降のものであるが、約60点の絵馬が色彩鮮やかに拝殿に配され、まさに絵馬堂といえる状況である。
 児島高徳が、隠岐島に流される後醍醐天皇を途中救い出そうと、美作の宿所に忍び込んだが果たせず、自分の気持ちを託した「10字の詩」を桜の幹に記したという有名な絵馬がある。
 平成19年には2点が広島県立民俗歴史資料館に展示され、平成21年には歴史博物館に1点が展示となる。

[Ⅲ]神社・仏閣
(1) 神社
白鬚神社

所在

庄原市東城町森2352番地

祭神

猿田毘古命さるだひこのみこと伊邪那伎命いざなぎのみこと天宇受売命あめのうずめのみこと可遇突智命かぐつちのみこと上筒男命うえつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと底筒男命そこつつのおのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこと天児屋根命あめのこやねのみこと大物主命おおものぬしのみこと豊聡耳命とよとみみのみこと・崇徳天皇
(相殿神)
伊邪那美命いざなみのみこと稲背脛命いなせはぎのみこと綿津見命わたつみのみこと八十禍津日命やそまがつひのみこと事代主命ことしろぬしのみこと雷之神いかづちのかみ大山津見神おおやまつみのかみ

例祭

10月26日

境内地

830坪

宝物

  • 太刀(領主・宮高盛公寄進)
  • 長刀(大坂の陣落人・石田平兵衛寄進)

由緒

 創建年代は不詳であるが、古代悠遠の鎮座なり。社家伝説によれば、往古群内に数社ありし大氏神の一社にして地方開拓の始祖なり。
 白鬚大明神の古称あり。
 天文年中(1532~55年)領主であった宮高盛公が太刀一振を寄進。慶長年中(1596~1615年)東城城主・勘解由孫六、太刀一振等の寄進あり。
 社殿は元亀元(1570)年再建。明治13年、二ノ宮母里神社(旧称・若一王子社)を合祀し、現社殿を再建。

伝承

 児島高徳義挙の際、飯山(神社背峰)に登り隠岐島を臨み船玉神を祀り海路の平安を祈り、後に小社を山麓に造り、文和年中(1352~56年)白鬚大明神と称し祀ると伝える。

その他

  • 社叢は庄原市の天然記念物に指定されている。
  • 各集落(行政区)単位に8つの宮詣りの講が存在し、3月~10月の各月の月次祭に順番に参拝し、祭典の後、直会(なおらい)を行うならわしがある。
  • 春祭り、秋祭りでは宮司宅より行列を組み神祇がおこなわれ、秋祭りでは御旅所への巡幸もある
菅原神社

所在

庄原市東城町森2026番地

祭神

菅原道真公すがわらみちざねこう
(相殿神)大山祇神おおやまずみのかみ素蓋鳴命すさのおのみこと大歳神おおとしのかみ豊磐窓神とよいわまどのかみ櫛磐窓神くしいわまどのかみ

例祭

10月25日

境内地

204坪

由緒

 応永33(1426)年、一杉城主の神王落人(『芸藩通史』では神王荒人と記す)が勧請し、城山天神と称したと伝えられる。
 明治30年、境内荒神社、境外字山之神の大仙神社を合祀する。

その他

  • 神社の裏山には、もと一杉城があったという。
国司神社(田黒)

所在

庄原市東城町田黒121番地

祭神

大己貴命おおなむらのみこと伊邪那美命いざなみのみこと素蓋嗚命すさのおのみこと稲田姫命いなだひめのみこと

例祭

11月1日

境内地

600坪

由緒

 文明5(1473)年9月15日、当村農民、田中甚左衛門が出雲国杵築大神を勧請したと伝えられる。
 大正12年7月、大字田黒、二の宮熊野神社を合祀。同年12月同字、大疫神社、小疫神社を合祀。昭和9年9月、田黒字宮の沖の旧社地より現在地に遷座。社殿を新築する。

その他

  • この神社の西方の小高い丘に、もと夏目城があったという。
八幡神社(川鳥)

所在

庄原市東城町川鳥650番地

祭神

品陀和気命ほんだわけのみこと帯中津彦命たらしなかつひこのみこと息長帯比売命おきながたらしひめのみこと武内命たけしうちのみこと武以命たけもちのみこと
(相殿神)大国主命おおくにぬしのみこと国司神くにしのかみ

例祭

10月29日

境内地

5,313坪

由緒

 創立年代不詳。往古より現境内の裏山(宮山と称す)中腹に山の神として祀り来り、文和元(1352)年に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したと伝える。
 当社は奴可郡の3八幡宮の一つとして、川鳥村、森村、田殿村、菅村、山中村、始終村、未渡村、田黒村の八ケ村の大氏神と称していた。なお、明治22年に6村合併により出来た八幡村の名の由来となる。
 また、昔より社領50石ありしを福島正則に没収されたが、今も神田と称えて不浄を禁じる地が残っている。
 神社の向い4~5町の所には『鳥居が段』と称する地名が残り、往昔の鳥居のありし所という。その付近に存する小仏堂は、朝日山万松寺と称し、かっては当神社の別当寺であったという。

その他

  • 神社の社叢は杉の大木が林立しているが、かっては広島県の母樹林として採種が行われていた。
  • 社叢には、胸高幹囲が広島県第1位の杉の巨樹がある。
八幡神社(保田)

所在

庄原市東城町保田300番地

祭神

品陀和気命ほんだわけのみこと伊邪那岐命いざなぎのみこと

例祭

11月7日

境内地

363坪

由緒

 川鳥村八幡宮を宇佐より勧請する際に、この地の家で休み、その家の主が歓喜の余りに笹を折りて幣となして神祭を行い、後に永和2(1376)年に当神社を創祀したと伝える。それに因んでその家を笹折と名付け、その地を笹折谷といい、近年に至るまで神社神庫の鍵預りを受け継いだと言う。
 明治42年、字吉信原の熊野神社を合祀した

国司神社(菅)

所在

庄原市東城町菅363番地

祭神

経津主命ふつぬしのみこと武か槌命たけみかづちのみこと

例祭

10月30日

境内地

448坪

由緒

 正中元(1324)年9月、菅村郷士土井五藤兵衛荒守と申す人、常陸国より鹿島神宮、上総国より香取神宮の御分霊を勧請したと言う。
 弘化3(1846)年本殿焼失、同年拝殿再建、嘉永6(1853)年本殿再建、明治14年現本殿を建立し、旧本殿を弊殿とする。明治4年村社に列せらる。昭和60年本殿、弊殿、拝殿の改修をする。

八幡神社(受原)

所在

庄原市東城町受原30番地

祭神

帯中津日子命たらしなかつひこのみこと品陀和気命ほんだわけのみこと息長帯日女命おきながたらしひめのみこと

例祭

11月9日

境内地

1,044坪

由緒

 永禄2(1559)年、火災により棟札古文書等を焼亡したが、文明2(1470)年、山城国石清水八幡宮より勧請の由、古老より申し伝う。
 棟札3枚あり、その内宝暦11(1761)年のものが最も古い。

その他

  • 境内には庄原市指定の天然記念物の「杉」がある。
(2) 仏閣
徳雲寺

由緒

 山口県小鯖町鳴瀧泰雲寺の三世・覚隠永本禅師が、3藍婆鬼を済度して開創した。時の領主、宮下野守政盛公が禅師の高徳に帰依して、祖先供養並びに国土安穏のために、後花園天皇文安3(1446)年起工し、12年かかって長禄元(1457)年に竣工して、350石を付した。当時、七堂伽藍を完備し、禅風を宣揚し地方文化に貢献する。殊に4世・仏項堅眠禅師より8世・大奥鐵通禅師に至る5代100年間は、勅特賜紫禅師号を賜り、勅使御差遺の栄に浴し、黒門と言われる勅使門が今も残っている。
 しかし、慶長年間(1596年)福島氏の芸備地区の支配により、寺領はことごとく没収され、経営が困難となる。ついで浅野氏の時代になり、わずかの郡公費により維持経営していたが、文久年間の郡制改革の際、ついに一切の維持費は檀家の負担となり寺運は衰えたが、昭和10年・11年に現在の伽藍が大修理され、今なお、末寺53ヶ寺を有する中本山である。
 しかし、曹洞宗内の記録では、徳雲寺の実質的な開山は覚隠永本ではなく、彼の弟子の鼎庵宗梅ていあんそうばいであったとしている。師匠である覚隠永本の名前が余りにも有名であったためか、徳雲寺の開創伝説の主役はいつからか、弟子から師匠に代わってしまったというのが真実であろう。

備後西国三十三ヶ所観音霊場

 徳雲寺の本尊は聖観音菩薩で、観世音が三十三の姿に変わって衆生を救うとされ、これが基になって備後西国三十三ヶ所観音霊場の巡拝がおこなわれてきたが、徳雲寺は第22番札所になっている。

鬼うす

 本堂より東北に600メートルの山中に自然石の臼がある。
 6代・孝安天皇の際、雲州杵築大明神初現の時に十鬼あり、その中の藍婆鬼という鬼神がここに来て住み、色黒く飛ぶこと飛鳥の如く出没して領民を苦しめた。覚隠禅師これを聞かれ、住民に安堵を与えんと遠路こられて、数日、石の上に座禅をしておられた。ある夜一人の老翁が来て問答すること数回、遂に鬼の本性を現して、自分の角を1本折って禅師に献上し、「願わくは吾の罪障をざんげするために、この山を開いて寺を建ててください。私はここを去ります。」といって姿を消した。禅師は、後に山中に鬼臼を発見して鬼臼峯と名づけた。
 角を折って献じた故事により、当山に限り角のない鬼を書いて寺紋としている。
 鬼臼は、自然石で約30センチメートルの臼穴があって常に苔水を蓄えて、旱天でも枯渇することなく遠近より、雨乞いに詣る人が多かった。

※藍婆鬼

昔、ここの岩窟に色黒くして飛ぶこと飛鳥の如く出没自在なる悪鬼が住んでいて、猪、鹿、狼、熊を捕らえ引き裂いて常食とす。後には山に入る木こりを捕らえ或いは人里に出て児女を捕りかえり、石臼の如き石の窪みに押入れ挽き砕き肉泥となし骨と供に食らう、故に里人絶えて山に入る者なく、行き交う人もなかりし…… 『広島県八幡村自治五十年志』

五重塔

 勅使門の向かいの松林の中にあり、石造にして天保2年田黒村・浜田金右衛門祖先追福のため、建立する。

山中鹿介の首塚

 徳雲寺世代墓の左奥にあり。

なぜ徳雲寺に山中鹿介幸盛の首塚があるのか?

① 尼子勝久と徳雲寺の関係
 天文23年、尼子式部大輔さね久(新宮党党首)、同族春久のため滅さるるや其の第三子助四郎(後の勝久)生まれて二歳なるを乳母懐に抱き逃れ出て徳雲寺に来り救援を乞う、住職・木中圭抱和尚(五世・勅徳紫覚海道智禅師)之を哀れみ留めて教養すること十余年、永禄9年、尼子義久、毛利に降るに及び助四郎依然毛利氏の領国に居るの不可を思い京都に上り東福寺に入りて修行せり。このような事を契機にして、出雲戦国武将尼子家と徳雲寺は密接な親交があったと思われる。
② 天正5年、中国攻めの秀吉に従い、鹿介は勝久を奉じて上月城にこもる。しかし毛利方により城は落ち、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず毛利氏に降伏した。しかし鞆の浦にいた毛利輝元の下へ護送される途中、備中の阿井の渡しで謀殺された。首級は鞆にいた室町幕府最後の将軍、足利義昭や輝元によって首実験が行われたという。首塚は鞆など他所にもあるが、徳雲寺にはその首を奪い持参したという家来の墓が首塚のそばにある。ちなみに鹿介の長男・山中幸元は父の死後、武士をやめて酒造業で財をなし、後の鴻池財閥の始祖といわれている。

雲龍寺

由緒

 開山は、文禄元(1592)年、徳雲寺第9世・白翁長伝大和尚で、その後、徳雲寺第18世・天厳大和尚の代に元有原から現在地に移転改築された。本尊は如意輪観世音菩薩(人々の悩みを全て救済する仏さま)で、奴可郡33ヶ所の第14番札所に当たる観音霊場である。

雲龍寺と小早川隆景公と牛供養

 小早川隆景とは、毛利元成の三人の息子の一人であり、三矢の遺訓で知られているが、関ヶ原の戦いに破れるまでは西国を統治する武将として父・元成とともに天下に名をはせていたが、何故か伯耆では牛馬の守護神として祀られている。
 明治16年、日野郡自照寺から小早川隆景の石版画と愛用の重藤の弓を分霊として持ち帰り、村の牛馬の守神としてお堂に祀ってある。分霊後70年目にあたる昭和27年には大仙供養田植が大々的に行われたが、八幡地域では最後の牛供養田植となってしまった。

愛宕山 新四国八十八箇所

 雲龍寺裏の愛宕山には、明治9年に勧請した新四国八十八箇所がある。地域の人で管理されており、番号を付した石仏を順番に巡ることができるようになっている。
 頂上は見晴らしが良く、森地域をはじめ白滝山や道後山が望まれる。

四国八十八箇所霊場とは
 今から1,200年前、弘法大師(平安初期、わが国真言宗の開祖・四国讃岐(香川)の人・三筆(嵯峨天皇、橘逸勢はやなり)の一人)が42歳のとき、人々の災難を除くため修業に努め開いた霊場が四国八十八ヶ所霊場。弘法大師の修業の遺跡である霊場を巡拝すること(遍路という。総行程 1,400キロメートル)は、大切な修業であった。
 遍路は、煩悩(人の心を惑わし、悩ませ、苦しめること)と菩提(悟りをひらくこと)の旅でもあり、「煩悩即菩提」と言われた。
 遍路は、阿波(徳島)の1~23番霊場で、脚をしっかり固める「発心の道場」から始まり、土佐(高知)の24~39番霊場で心を落ち着ける「修業道場」、そして伊予(愛媛)の40~65番霊場は信に入って悟りを開く「菩提道場」、そしていよいよ讃岐(香川)の66~88番霊場では諸願成就する「涅槃道場」です。最後は、高野山奥の院に参拝して大願が成就すると言われています。
(3) その他の建物
辻堂(お堂)

 八幡のあちこちで、朽ちつつあるお堂ではあるが、今でも地区の「大師堂」や「観音堂」に集まったりお参りされているところがある。中に、大日如来像など数体の仏像が安置されている。お堂は、三方を板囲いにした方一間の簡単なものではあるが、かっては旅人が休んだり地域の人達のサロンの場でもあった。
 実は、お堂のある風俗は貴重で、「比婆荒神神楽」のような国の重要無形民俗文化財には入らないが、「記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財」として『安芸備後の辻堂の習俗』が昭和58年に記録された。

篠原のお大師堂
辻堂(お堂)

 昔、おこもり堂もあり日参する人も多く、毎月23日にはお参りの人に接待をしていた。

保田のお大師堂
辻堂(お堂)
保田のお大師堂(右側)

 藤原英記宅裏にある。
 右側の大きい方の堂には、「聖観世音大士しょうかんぜおんだいし」と「瑠璃光如来るりこうにょらい(薬師如来のこと)」が祀られていたことを示すお札が納められている。
 左側のお堂には、陽刻された弘法大師の石仏が納められている。これは、明治四年辛未三月二十一日に建立され、願主は伯州日野郡根尾村住人小林武治良とあり、地元世話人3名と寄進者8名の名前が刻まれている。

川鳥の阿弥陀堂 朝日山万松寺
辻堂(お堂)

 阿弥陀堂なっても「万松寺の阿弥陀さん」として念仏講などを通して親しみ信仰されていて、珠数を操りながら念仏を唱えた「念珠・ねんじゅ」の大珠数が今も堂内に残っている。また、今も堂内には木造如来像×3体、石仏×1体、死没学童諸精霊・戦死病没諸英霊の位牌が安置されている。

湯谷観音堂
辻堂(お堂)
市道湯谷線に入り50メートル位行った所の右側にある。
柳田観音堂
辻堂(お堂)
川鳥5組・佐古康雄宅横の丘の上にある。
三草のお大師堂
辻堂(お堂)
飯山茶屋裏
保田の大日堂
辻堂(お堂)
森・ゆずりはの薬師堂
辻堂(お堂)
菅の不動明王
辻堂(お堂)
「作新舎」「有倫舎」
作新舎
矢印部分が「作新舎」
有倫舎
「有倫舎」

 明治政府は明治5年、寺子屋の閉鎖を命じ新しく学制を公布したため、村々では公立の学校を自費で創設しなくてはならなかった。
 明治8年、森村、田殿村、田黒村の三か村では共同で組合立小学校を立ち上げる。白髭神社の祠官中島家の別宅を学舎とし、名前を「作新舎」と名付けた。明治9年に森学校と名を変えたが、児童の増加のため明治12年に郷倉に移転するまで使われた。
 川鳥村においても、川鳥八幡神社祠官中島氏別宅を学舎として出発した。名前は「有倫舎」と名付けられ、表札も大切にかかっている。
 これらは、最初の学舎として使われた記念すべき建物である。

名称地名設立年生徒
生徒
変遷
作新舎森村明治8年498→森小学校
有倫舎川鳥村明治8年389→川鳥小学校
養源舎菅村明治8年5521→菅小学校
進徳舎受原村明治7年→受原学校→竹森小学校受原分校→竹森小学校
郷倉
郷倉
槇ケ峠の郷倉の中

 年貢として持ち込まれる籾俵を検査後、一時的に保管する施設で、各村に置かれていた。これを物成(今でいう公租)といい、俵は三原の倉へ運ばれた。しかし、奴可郡からは遠方なので一部地元の山内(鉄山師の飯米)や酒屋(酒米)に売り、その代金で納めることも出来た。これを所払いという。
 また、郷倉には、「囲い籾」という制度によって飢饉に備えた籾も貯蔵していた。その他次年度の籾の種籾も用意しており、利息2割で貸し出していた。
 広島藩では、凶作の続いた享保年間に社倉法という飢饉に備える制度をつくり、年貢とは別に村人達の管理のもとで米や麦などの雑穀を拠出し貯えることをすすめた。これらを入れる倉を社倉といい、森村では郷倉の一部を社倉に利用したという記録がある。この中の穀類も貸し出し、その利息を村の経費や将来のための積立金とした。
 槇ケ峠の郷倉は、森の庄屋、友永の家の裏にあったが、明治になって蔵が廃止された後、森の福島屋に購入され、県道そばに移転して農舎として利用されていた。
 昭和50年、八幡会が八幡の歴史遺産として保存するため購入し、現在地に移築された。

亀竹家の鍛冶小屋及び道具一式
亀竹家の鍛冶小屋

 亀竹芳明宅の横にある。
 小屋は、炉内(ホウチ)を中心に壁全体が泥で覆われており、その中に鍛冶屋の道具一式がある。そのまま鍛冶が出来るかのように見える程きれいに整理保存されている。

木鼻
木鼻
受原八幡神社の木鼻

 人々の悪夢を食べてくれるという獏の彫刻がみられるが、この部分を木鼻きばなと言います。木鼻とは、木端ともあらわされるように、「木の端」を意味している。複数の縦柱を横に貫いている柱(頭貫かしらぬき)や虹梁こうりょう等の端に付けられた彫刻のことである。
 歴史的には平安時代までの和様では一部例外を除いては、木鼻は見られない。
 鎌倉時代になると、東大寺南大門(再建)に代表される大仏様、さらに禅宗とともに渡来した禅宗様が登場し、この建築様式から木鼻も登場した。初期の木鼻は、現在のような別木で製作したものを取り付けた装飾性の高いものではなく、突き出した柱の先端を彫刻した素朴な感じで形もシンプルなものだった。
 室町時代になると大仏様はすたれて、他の建築様式と融合した折衷様へ木鼻等が受け継がれて新たな展開を示した。禅宗様も室町時代には折衷様へと同じ道をたどっていたが、木鼻はより装飾的になり、やがて、別木で作成したものを取り付ける「掛け鼻」構造へと変わっていった。
 木鼻の取り付けられた場所で一番多いのは、向拝正面の頭貫部分である。大きく分けると、頭貫のみに付けられた物と頭貫と直角に交わる虹梁の両方に付けられた物に分かれる。後者の場合には、同じ物と別物の組合せがある。

備後八幡駅
備後八幡駅
駅の構造

 備後落合方面に向かって、左側に単式1面1線のホームを持つ地上駅。以前は、対向式2面2線の列車の交換可能駅だったが、駅舎反対側のホームが廃止され棒線化された。そのため、現在は上下線の全列車が同じホームから発着する。
 廃止されたホームの方には、錆びた線路が本線から分断された状態で残っている。また、以前は駅事務室が存在していたが、撤去されて待合室部分のみとなっている。
 簡易委託駅で、近くの菅簡易郵便局で200円区間の乗車券のみを販売している。(200円区間は、東城駅と小奴可駅である。)
 駅の少し先には、トロッコの鉄橋の残骸が残っており、昔、帝国製鉄株式会社の原料の調達のために使用された。また、農協の米貯蔵庫も残っており、昔は貨物側線も存在していた。駅構内の線路は、その跡も見ることができる。

歴史

昭和10(1935)年12月20日

国有鉄道三神線の東城―小奴可間延伸により開設される。

昭和12(1937)年7月1日

三神線が芸備線の一部となり、当駅もその所属となる。

昭和58(1983)年10月31日

無人駅となる。

昭和62(1987)年4月1日

国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。

[Ⅳ]八幡の天然記念物
(1) オオサンショウウオ

所在地

地域を定めず

指定年月日

昭和27年3月29日(国指定・特別天然記念物)

その他

  • 東城町内の河川には、オオサンショウウオ(東城町一帯ではハンザキという)が多く生息している。八幡地域では、田黒・菅・受原沿いの東城川や田黒川・保田川等で確認されている。
  • 半分にさいても死なないほどの生命力があるということから、ハンザキとよばれるようになったという。
  • 東アジア特産の動物で、現在地球上に生息する有尾両生類中最大で世界的に有名である。中部地方から九州にかけて、山間の渓流に生息しているが、中国地方は特に著名な産地である。
  • 大きいものは、全長1.5メートルに達し、外形は怪異であるが、性質はいたっておとなしく、水中の岩下やほら穴の中にひそみ、カニやサワガニなどを捕食する。
  • オオサンショウウオの分泌する体液が、山椒の匂いがすることからサンショウウオの名が付いたといわれている。
  • 八幡地域には小型のプチサンショウウオも生息する。
(2) 植物
受原三納原のマンシュウボダイジュ

所在地

庄原市東城町受原

指定年月日

未指定

所有者

横山弘明

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

1.65メートル / 1.41メートル / 約20メートル

その他

  • 絶滅危惧種、シナノキ科の落葉高木である。葉は斜卵型で長さ10~18センチメートル、幅8~15センチメートル、7月ころ淡黄色の花が多く開く。果実は、球形から扇球形で径8.5ミリメートル程、灰褐色の短毛が密生する。
  • 朝鮮半島・中国(東北部)ロシア(ウスリー島)に生育する大陸系の植物で、日本では岡山県・広島県・山口県に分布し、いずれも高地の谷間などの冷涼地に生育する。
  • 東城町内には、同種の「大元のぼだいじゅ」(根回り周囲1.69メートル)が庄原市指定天然記念物に指定されているが、本樹もこれに匹敵する大きさであり、横山氏裏山の墓地に位置することから大切に保護されたものと思われる。
受原八幡神社の杉

所在地

庄原市東城町受原30番地

指定年月日

平成3年12月24日(庄原市指定)

所有者

受原・八幡神社

胸高幹囲 / 樹高

4.70メートル / 約40メートル

その他

  • 本樹は、JR備後八幡駅南方の山の中腹にある受原八幡神社境内に所在する。
  • 杉は、スギ科の常緑高木、日本特産で、秋田・吉野・屋久島などが有名な産地となっている。樹幹は楕円状円錐形、樹皮は赤褐色で縦に長く裂ける。葉は小さな針状で、やや湾曲し小枝にらせん状に密生する。
  • 材は、建築・器具など用途が広い。葉は線香を作り、古来より樹皮は屋根を葺いていた。 和名は「直木(すき)」で、すくすく立つ木の意からという。
  • 本樹は、受原八幡神社のシンボル的存在である。
八幡自治振興センターのメタセコイア

所在地

庄原市東城町森

指定年月日

未指定

所有者

庄原市

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

5.40メートル / 4.29メートル / 約30メートル

その他

  • 本樹は、八幡自治振興センターのグランドの端に所在する。
  • メタセコイアは、スギ科メタセコイア属の針葉樹で、一属一種である。和名はアケボノスギという。葉は、モミやネズに似て線のように細長く、長さは3センチメートル程度、幅は1.2ミリメートル程度で、羽状に対生。秋に赤茶色に紅葉した後落葉する。樹高は、成長すると25~30メートル、直径1.5メートルとなる。雌雄同株で、花期は2月~3月。雄花は総状花序、あるいは円錐花序となって枝から垂れ下がる。結実は多く、秋から冬にかけて無数の種が地表に落ちる。
  • 旧森小学校の跡地に位置する本樹は、1949年に米国から国と皇室がメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、全国各地に植えられたことを期に植栽され、今日まで八幡地域のシンボルとして守られてきた。
  • 本来メタセコイアは、化石から発見されたものである
森向迫のイチイ

所在地

庄原市東城町森

指定年月日

未指定

所有者

松崎幸子

根回り周囲 / 胸高幹囲

1号 2.10メートル / 2.12メートル
2号 2.40メートル / 2.24メートル

その他

  • 本件のイチイは、八幡自治振興センター東側の斜面、向迫の裏に2本が所在する。イチイは、東アジアの日本をとりまく地域に分布する雌雄異株の針葉樹で、日本では、北海道・本州・四国・九州の山地に分布する。
  • 中国地方では、比婆山山系の頂上域に見られるにすぎない。近隣では、胸高幹囲 2メートルの庄原市指定天然記念物「妙楽寺のイチイ」が存在するが、胸高幹囲2メートル以上のものは稀であり貴重である。
森湯谷のエドヒガン

所在地

庄原市東城町町森520番地1

指定年月日

平成6年2月28日(広島県指定)

所有者

八幡会

根回り周囲 / 目通り幹囲 / 樹高

6.00メートル / 5.06メートル / 約32メートル

枝張り

 10.0メートル / 西 12.0メートル
  9.0メートル /  15.0メートル

その他

  • エドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガンとも呼ばれる)は、本州・四国・九州・朝鮮半島及び中国大陸に分布する。花は葉が出るまえに咲き、花柄やがくに毛が多い。
  • 本樹は広島県内では、総領町の「下領家のエドヒガン(広島県指定、胸高幹囲6.4メートル)」、「小奴可の要害桜(広島県指定、胸高幹囲5.7メートル)」に次ぐ第三位の巨樹である。胸高幹囲4.5メートルを超えるエドヒガンは、全国的にもあまり多くないので貴重である。
  • 東城町内には、東城三大桜「森湯谷のエドヒガン」「小奴可の要害桜」「千鳥別尺のヤマザクラ」(いずれも広島県指定天然記念物)が所在し、多くの人々に親しまれている。
森井之迫のキササゲ

所在地

庄原市東城町森

指定年月日

未指定

所有者

藤原博光

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

2.04メートル / 1.96メートル / 約15メートル

その他

  • キササゲは、中国原産の落葉高木で、高さ 10m を超える高さに成長する。
    古くから薬用植物として日本各地に栽培され、野生化したものが生育している。花は美しく、薄い黄色の地に赤紫色の斑紋がある。直径は2センチメートルほどで6月から7月に開花する。花が終わると急速に果実が生長し、長さ30センチメートルほどのひも状になる。これをササゲに例え、木のササゲと名付けられた。日本では未熟な果実をとり、乾燥したものを利尿薬とし使用している。
  • 本樹も薬用植物として植栽されたものが、今日まで守られてきたと思われる。
森川除のシラカシ

所在地

庄原市東城町森

指定年月日

未指定

所有者

石田繭子

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

4.04メートル / 5.37メートル / 約25メートル

その他

  • シラカシは、本州から九州、中国にも分布する常緑の高木である。葉は長さ4~13センチメートルで、やや皮革質で端正なイメージがある。裏面は緑白色であるが、あまり白くはなく、やや白味がかる程度である。4~5月に尾状の雄花序が下がり、堅果(ドングリ)はその年の秋に稔る。殻斗は、6~8の環があるのが特徴である。山地に生育している状態では、直幹がすらりと伸びて、樹高は20メートルほどになる。和名は葉の白さではなく、材が白いことに由来する。
  • 古くから器具材に利用されてきたが、現在では公園樹や庭木として利用されている。
  • 本樹は、石田家の墓地に位置することから、伐採されることなく大切に守られてきたものと思われる。
白鬚神社の社叢

所在地

庄原市東城町森2523番地

指定年月日

平成2年9月28日(庄原市指定)

所有者

白鬚神社

その他

  • 飯山の南東側山麓にある社叢で、スギを主として、モミ・ケヤキ・ エノキなどかなりの大木が生えている。境内の北及び南側の斜面にはヤブツバキが多く、この種にしては比較的大きい木が自生している。
  • 主な樹種と、それらの胸高幹囲を示すと次ぎのようである。スギ(8.32メートル)・モミ(2.05メートル)・アカマツ(1.80メートル)・ケヤキ(5.02メートル)・エノキ(2.25メートル)・ヤブツバキ(0.91メートル)。このように、本社叢はスギ・ケヤキの大木があり、群落組成のうえでも特異な様相を示し、学術的にも貴重である。
森田殿のモミ

所在地

庄原市東城町森

指定年月日

未指定

所有者

不明

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

5.90メートル / 4.50メートル / 約40メートル

その他

  • モミは、マツ科モミ属の常緑針葉樹である。日本のモミ属の中で最も温暖地に分布し、その北端は秋田県、南端は屋久島である。樹高は40メートルにも達するものもある。モミ属は全般に樹皮が白っぽい灰色のものが多いが、このモミの樹皮は、かなり茶色がかっている。
  • 日本のモミ属の中にあっては最も葉が大きくて堅く、若枝には軟毛が生える。葉は細くて固い針状で、先端は二叉で鋭く尖るが、老木では先の丸まった葉をつける。球果は10~15センチメートルと大柄で、はじめ緑色、10月頃成熟すると灰褐色になる。成熟すると鱗片が脱落するので、松かさのようにそのままの姿で落下することはない。
  • 本樹は共同墓地の一角に位置していることから、田殿地域で大切に保護され今日まで残されてきたものと思われる。
芝山のブナ

所在地

庄原市東城町森284番地

指定年月日

平成2年9月28日(庄原市指定)

所有者

八幡会

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

1号 3.52メートル / 2.73メートル / 約25メートル
2号 3.52メートル / 2.82メートル / 約25メートル

その他

  • 大規模林道を東城町保田から西城町高尾に向かって北側・法面の上方の海抜約800メートルのところに2本のブナが自生している。ブナは、北海道南西部から九州まで分布している落葉高木である。広島県では、海抜700~800メートルあたりから出現し、国指定天然記念物「比婆山のブナ純林」が有名である。
  • ブナ2樹は、かつてそこに発達していたブナ自然林の名残りであって、潜在自然植生の指標となり、しかもブナ分布の下限に近い位置にありながら大木に育っており貴重である。
川鳥のツバキ

所在地

庄原市東城町川鳥

指定年月日

未指定

根回り周囲 / 胸高幹囲

2.18メートル / 2.10メートル

その他

  • ツバキは、ツバキ科ツバキ属の植物の総称であるが、狭義にはヤブツバキを指す。照葉樹林の代表的な樹木で、花期は冬から春にかけてである。ヤブツバキの分布は、南西諸島から青森県夏泊半島まで分布し、ツバキ属の自生地の北限である。西日本には、ほぼ全域に分布しているが、東日本では温暖な地域に自生する。
  • ツバキの用途は、観賞花として古来から日本人に愛され、また、椿油として高級品食用油や整髪料に使用されることが有名である。一方では、ツバキは生長すると樹高20メートルほどになり、摩擦に強く磨り減らないことから工芸品・細工物とし珍重された。しかし、日本のツバキの大木はほとんど伐採され、現在は入手困難である。その他、木灰や木炭としても活用された。
  • 本樹は、代々神職を務める中島家の墓地と宮本名三宝荒神社の奥に位置し大切に保護されたものと思われる。
大谷山のオオモミジ

所在地

庄原市東城町川鳥

指定年月日

未指定

所有者

八幡会

根回り周囲 / 胸高幹囲 / 樹高

3.82メートル / 3.05メートル / 約10メートル

その他

  • オオモミジは、北海道中部以南から北九州にまで分布する落葉小高木で、山地の森林に生息し、ブナ帯から常緑広葉樹林帯に生息する。庭園木としてもよく栽培される。葉は端正で美しく、通常は7つ(5~9)に掌状に分かれる。4~5月にかけ、展葉直後に花を開く。花は紅色で、雄花と両性花が混在する。果実は1つの花に2つでき、翼があって風で散布される。
  • 本樹は、林道東城中央線の川鳥・戸宇区間の頂上付近の谷あいに位置する。
  • 東城町内堀に、庄原市指定天然記念物「大古屋の大モミジ」(胸高幹囲2.50メートルと2.80メートル)2樹が指定されているが、このオオモミジは、それを上回る巨樹である。
権現峠のイヌシデ

所在地

庄原市東城町保田

指定年月日

未指定

所有者

不明

根回り周囲 / 樹高

3.36メートル / 約25メートル

その他

  • イヌシデは、カバノキ科の落葉高木で、本州・四国・九州の山野に自生する。高さは15~20メートル、樹皮は灰白色でなめらかであり、縦に綱目模様ができる。花期は4~5月頃、雌雄異花で花序は穂状で下垂する。葉の側脈の間に白い毛が多くあり、秋には葉が黄色く紅葉する。庭園木として利用される。 かつては炭材として利用されていた。名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子
    が、注連縄などに使われる紙垂(しで)に似ているからといわれている。
  • 県道の法面に位置する本樹は、主幹が地上1.80メートルで3枝に分岐する。主幹分岐部の周囲は2.65メートル、第2分岐部の周囲は2.00メートル、第3分岐部の周囲は1.80メートルとなっている。県道の斜面沿って5本が隣接しており、境界木として大切にされたものと思われる。
上菅のムクロジ

所在地

庄原市東城町菅

指定年月日

未指定

所有者

藤原正明

根回り周囲 / 樹高

3.5メートル / 約23~25メートル

その他

  • ムクロジはムクロジ科の落葉高木で、中部地方以西の本州から沖縄、及び中国・インド・インドシナ半島に分布する。
  • 日本では、山野に自生するものや庭園や神社に植栽されたものがある。高さは15~20メートルに達する。夏、枝先に大型の円錐花序をつくり、緑白色を帯びた
    小花を多くつける。果実は球形で約2センチメートル、熟すと黄褐色になり、中に球形で硬い黒色の種子が1個ある。果実はサポニンを含み、泡立つので、明治時代ま
    で石鹸として洗濯や洗髪に使用されていた。種子は硬く正月の羽根突きの球として使用されている。
  • 本樹は、石鹸など無かった時代から果実を石鹸の代用品として採取するために大切に保存され、今日まで来たものと思われる。
  • 庄原市東城町では五品ヶ嶽城跡の樹林の中に胸高幹囲3.0メートル以上のムクロジの大木が数本確認されている。
[Ⅴ]石造物
(1) 往還の石造物
道標

 牛飼いの村らしく、道が分かれる場所に据えられている馬頭さんに行き先が刻まれているものもある。背に荷を付け行き交う牛馬の安全を願う馬頭観音像の道標は、この地方ならではの風景である。丸くなった川石の道しるべも何故か草むす路傍にあう。

森・菅原宅前の道標

文     寅
政      
十     年
三      

左     右
と     た
う     い
志     し
う     ゃ
      く

左     右
ハ     ハ
小  世  東
奴  話  城
可  人   
   尼   
   児   
   喜   
   作   

受原三納原の道標

左   右  
ハ   ハ  
戸   戸  
宇   宇  
た   頭 受
い   谷 原
し     三
ゃ     納
く み   原
  ち   中

森・田黒別れの道標

明          
治          
卅          
四          
年          
十  左     右 
二  ハ     ハ 
月 ふ 当   た 才
  く う 施 以 以
  や じ 主 志 じ
  ま ゃ 前 や や
    う 木 く う
      戸    
      友    

徳雲寺への道標いろいろ
菅・沖野宅裏

  南 二
右 無 十
者 観 一
徳 世 番
雲 音  
寺 菩  
  薩  
左    
者    
雲    
州    
伯    
耆    
之    
道    

徳雲寺道標(和田宅裏)
八幡駅前

徳雲寺まで13丁とある。
(1,300メートル)

徳雲寺道標

三草篠原線から徳雲寺へ通じる道路を開拓した際、道路寄付者が建立。
平安の森への道路拡張の際に移設。

常夜灯
保田の常夜燈

 旅の途中、夜道にかかった旅人にとっては、常夜灯の光が見えるとホッとしたであろう。灯をともさないとしても、街道の道しるべとしても機能していた。
 保田では「やとうさん」として親しまれているが、出雲大社、三保神社、木山神社、金刀比良社の四社が勧請されており、道行く人は、神の加護を祈ったに違いない。
 岩の上に自然石をそのまま積み上げているが、一般の常夜灯の構造と違うところはなく、名を刻んでいる保田の人々の思いが伝わってくる。

(2) 牛飼い習俗の石造物
馬頭観音(ばとうさん)
受原・魚切橋たもとの馬頭観音

施     文
主  馬  政
      三
山  頭   
根     庚
田  観  辰
万     二
蔵  音  月
       
      日

 本来は六道の一つ畜生界にある人々を救う馬頭観世音ではあるが、頭上に馬頭を頂いているので、牛馬の供養塔に使われだしたのではないかと言われている。八幡の路傍にも、無数の馬頭さんが祀られているが、頭部を見れば馬らしき物が刻んであるので丸坊主姿の石地蔵とはすぐ見分けが付く。三面六臂の像が正統ではあるが、一面二臂の像が多い。

 農家にとっては、家族の一員として年中働いてくれた牛馬に対しての愛着は言葉に言い尽くされぬものがあった。感謝の気持ちから、馬頭観音を自然に刻まれたものと思える。当地に無数に有る馬頭さんを、無視してはならない。旧墓に人の墓石と一緒に馬頭さんがよく並んでいるのもうなづける。

牛馬供養碑
森・土居原牛馬供養碑

   牛   
   馬   
旧  御  嘉
寅  供  永
三  養  七
月     年
十     伯
一     楽
日     清
      水

 大きな牛馬供養碑が、所々でみられる。これは、事故や病気で死んだ牛馬の供養のために、また安全を願うために、個人と言うよりも千人講といって多くの人々の浄財を集めて像立されれたものである。むろん個人で立てたり、大山供養田植を行った主催者の記念碑であったりもする。馬頭観音も、同じように講で建てたりした。

牛の石造物
川鳥八幡神社の牛の石造物

 ふつう神社には、狛犬や獅子の石造物が寄進され、境内の風景になくてはならぬ物ではあるが、当地方の神社ではこれらに加えて牛の石造物が寄進されていることが多い。牛馬の産地として、これも特筆に値する。

森・白鬚神社の牛の石造物

    明       神   佐  願
横 石 治     恵 備 こ 藤  主
山 寄 十 人 氏 み へ の 甚   
庄 せ 年 夫 子 を て 牛 右 仁 
次   十 氏 栄 う   を エ 井 
郎   月 子 へ け     門 屋 
    発 中 る て         
    起               

(3) 信仰の石造物
石地蔵
石地蔵
保田の地蔵 (安永四年八月)

 よく母なる大地というが、地蔵さんは、サンスクリット語のクシティ・ガルバ(大地・胎内)をそのまま意訳したものだという。大地が命を育むように、お地蔵さんは、弱い立場の人々を救って下さると信じられてきた。六道を迷う人々を救済する姿は勿論だが、賽の河原で責められる子どもを助けるということから、特に子どもを守護する仏さんとして人気のある仏さんである。八幡にはたくさんの石地蔵は見られないが、特徴あるお地蔵さんが祀られている。

六部廻国供養塔

    奉      
    納      
    大      
酉   乗      
三   妙      
月   典   明  
廿 一   日 和  
日 字   本 二 六
  一   廻 年 部
  石   國   義
          関

 日本六十六カ国を巡り、霊地に法華経を納めるために、白衣に手甲・脚絆姿の廻国聖を六部という。現世において善行を積めば、来生は幸せになれるという信仰から、橋を架けたり供養塔を建てるなど地域貢献をしながら廻国した。

 牧ケ峠のこの石造物の下から、おびただしい数の一字一石の小石が国道建設で移転の際出てきた。法華経の経文を小石に一文字づつ書いたと思えるが、この小石とこの大きな石に刻まれている文字から、六部の全てが理解できそうである。大乗妙典塔ともいう。

宝篋印塔
宝篋印塔
川鳥・友川裏の宝篋印塔

 墓塔、供養塔の一種で、もともとは宝篋印陀羅尼経を納めるために使われていたという。先端のとがった部分を相輪というが、その下に見える四隅がとがった隅飾りがこの石造の特徴である。ばくち打ちは、この隅飾りを縁起を担ぐために欠いて持ち帰ったとも聞く。時代が下ってくるに従って、隅飾りは花びらのように外に開いてくる。

五輪塔
五輪塔
森・小林家旧墓の五輪塔

 野山のあちこちに、結晶質石灰岩で出来た五輪石が点在しているのをよく見るが、もとは、下から方形、円形、三角形、半月形、宝珠形の五つの石が重ねられていた墓塔もしくは供養塔である。これは、地、水、火、風、空をあらわす。
 この地方では、加工しやすい結晶質石灰岩で作られた石造物が多いのも、帝釈など石灰岩地帯を擁しているからである。出来たときの白さと、時と共に消えていくこの石に、特別な思いが込められているのかも知れない。

不許葷酒入山門
不許葷酒入山門

 この写真は、徳雲寺の山門に入る手前の池に渡してある石橋の側に遠慮がちに立っている石柱である。刻んである文字のうち「葷」について、植物学者牧野富太郎は「不許葷酒入山門」という随筆の中で考察している。臭いニンニク、ネギの類らしい。「本草綱目」の一文を載せている。

「生食スレバ 怒リヲ増シ、熟食スレバ婬ヲ発シ、性霊ヲ損ズ故ニ之ヲ絶ツナリ」

 岡山市にも菅茶山筆の同じ石柱があるという。多くのお寺の山門で見られる。

飯山龍王神石碑
飯山龍王神石碑

 飯山山頂の三角点そばに大きな石碑がある。龍王神と刻んである。これは明治9年の大干ばつ時に17日間にわたる神官、僧侶による祈祷と千把火を焚いた記念の石碑である。 土用の炎天下、五十人で担ぎ、五十人が縄で引っ張りながら小出居から出発し、清水から飯山道を登り、途中から内道を登り曽根に上がる。それから曽根伝いに飯山の山頂に着いたという。記録には「・・此ノ珍行列ハ後世再ビ見ル能ハザル奇観トシテ村民ノ語リ伝フル所ナリ」と結んでいる。

「広島県八幡村自治五十年志」

地神(じしん)さん
地神さん
菅・国司神社前

 ほとんどが明治以降の造立で、県内では岡山県境に近い地域に多く祀られているという。八幡地区では、受原3,菅2,篠原1,田黒1、三草1、川鳥1で合計9個確認されている。
 今も「地祭り」時には丁寧に祀られ、注連縄が巻かれる。流水できれいに磨かれた丸っこい川石に大きく刻まれた「地神」の文字は、人々の大地への祈りと感謝の気持ちが伝わってくる。
 田黒には、「大正七年十一月吉天」と刻まれた地神さんがある。これは、槇戸井手が洪水で壊れたとき、いわれの有りそうな立派な石が出てきたのを見て、田辺茂次郎氏や田辺善作氏らが相談し地神さんとして祀ることにしたという。(東城町森田黒土地改良区「よみがえる飯の里」)

(4) その他
受原・岩倉大権現の巨石
受原・岩倉大権現の巨石

 岩倉(神が宿る大きな岩がある)に鎮座の権現さんで、受原村の三の宮として守り続けられている。石鳥居は宝暦7(1757)年に建立される。

 岩倉は「磐座いわくら」と同じで、神が宿る大きな石、山中の大岩や崖のことで、「権現」とは、人々を救うために、阿弥陀・菩薩(仏)が仮(権)に神に姿を変えて「現」れる日本の神の神号の一つである。巨岩の根元に祀られた「岩倉権現」、神が宿るもしくは降臨する巨岩を盤座(いわくら)と言う。
 この神社の名前も、盤座からの名前ではないかと思われる。石をたたいてできた粉を、「ひすね」に付ければ治っていたという話がある。どの石かは不明。

菅原神社の石碑
菅原神社の石碑

 田殿・菅原神社の境内に入る手前に石の手水鉢があるが、その後ろに遠慮がちに小さな割石の石碑がある。たたら製鉄に依存した村の風景がよみがえるような碑文が刻まれている。
 芝山のたたらが菅原神社の石垣を寄付し、村の者が人夫となって積み上げたという内容である。
 一般的に山奥に存在した山内(たたら場)と地元との交流は厳しく制限されていたとはいえ、かんな流しで得た砂鉄(小鉄)や、自分で焼いた木炭、また山内で出来た鉄製品を牛馬で運ぶ駄賃などは村人の重要な収入源であった。田殿村では山内で出る下肥を引き取る取り決めもあったようだ。
 この石に刻まれた碑文は山内の人々と村人との持ちつ持たれつの関係を示す貴重な記録といえる。

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